4歳と山で暮らした話16 半年戻して、フィリピン

時間を半年戻して

2月

マイナス10度の山の家から東京を経て、30度のフィリピンに着いた。

熱帯気候の植物相ってば、日本(東京)で見て記憶しているものたちより遥かに大きく力が強そうでクラクラする。

*

*

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離婚して山の家に行くことを決めたあと、一番近所にある自動車教習所に自転車こぎながら免許を取りに行っていた夏。

ふと「おっちゃんのところ行ってみようかな」と思った。 おっちゃんは父の兄で、かれこれ20年近く海外にいて、小さなコテージとダイビングショップをやっている。

 

これから寒い寒い山の家に引っ越して暮らすのだから、一番寒い2月ごろにめちゃくちゃあったかいところに行く計画を立てるのはどうだろう?先に楽しみを用意したら、もしかしたら大変なことが起きたとしても、耐えられるかもしれないと思った。

おっちゃんとは法事で5~10年ぐらいに一度会うぐらいで、子供にさほど興味がないタイプの大人で、さすがに姪なのでまあ嫌われてるとも思わないが、別段好かれているとも思っていない。
そしておっちゃんの弟であるところの私の父とおっちゃんも仲良くないので、おっちゃんがいる場所に家族では一度も遊びに行ったことはなかった。

でも私はなぜか、行かなくちゃと思った。
「こーんなに頑張ったんだもん、ご褒美を用意しといてもいいよね!叔父であるおっちゃんに甘えさせてもらうのもいいよね」と思って。行かなくちゃっていうかめっちゃ行きたい、て感じか。

 

子と2人で行くのもいいなと思ったけど、さすがに海外に慣れてないのもあり不安が大きく、Mちゃん一緒に行ってくれるかな~?とMちゃんにダメもとで聞いたらば、Mちゃんは二つ返事で「行く」と言った。

 

Mちゃんはフットワークが重いのか軽いのか不思議なバランスの私の友人で、気が向いたことはサッとやるが気が向かないことはじっと動かない。ずーっとおうちの中にいるのかと思えば、急に山にいたりする。まるでカタツムリみたいだと思う。のんびりゆるゆる動いてるかと思えば、少し見ていないと思いもよらぬところにいたりする。外からの攻撃には殻にこもってやり過ごすところもなんだか似ている。

私とは全く違うタイプだけれど、就職してから長いことそれぞれの立場から見えることについて定期的に話をしてきた大好きな人だ。

 

私たちのちょっとした国外逃亡は、東京に戻ってパスポートを作るとこから始まって、このフィリピン航空券をとるだとか、おっちゃんと連絡して現地の情報を集めてMちゃんに伝えたり、フィリピンで行きたいところを調べるとか…そういうことを経ていた。
たぶんほんとの(ほんとの?)国外逃亡もそうなんだろう。いやそんなことないか。適当なことを言った。

そういう楽しいことを引っ越し準備や離婚の準備、仕事やなんかと並行して進めていくことは本当に忙しかったけど、忙しいのはいいことだった。
その頃の私は常に忙しくすることで、自分のことを守っていた時期だったのかもしれないと思う。やることがあるときは考えなくていいから。暇は怖い。

 

その時の自分を今抱きしめてよしよししてあげたい、ありがとう、がんばってくれて、って。

2月の寒い日

すごく安いチケットだから成田空港の近くのホテルに前泊した。前泊しても安くって。渋谷の新南口から成田エクスプレスで行った。新南口の下にあるベローチェでコーヒーを飲んで、大きいトランクを持ちながらもうすぐ5歳になる娘と一緒に成田空港駅に行った。成田エクスプレスの中で、大きなトランクを荷物置きのところに置くことができなくて、助けてくれるパートナーもいなかったからもたもたしていた。でも後ろにいた人が助けてくれた。ありがとうございます、と言った。別に全部自分でできなくても何とかなるんだ、と思った。

 

成田空港駅から前泊予定のホテルまでバスで行って、やっと部屋について湯船にお湯をはったり、ロビー横のコンビニにいくうちに、緊張がほぐれるかと思ったら別で、あ~わたしと子どもだけで海外に行くのだ、という新たな緊張感が出てきた。

 

いや、Mちゃんもいるし、滞在先はおっちゃんのところだし、大丈夫だ。でもまあ緊張してた方がいいんだろうな、ということで緊張してることは良しとした。

 

コンビニでビールとお菓子を買って、子が寝た後にビールをあけて飲んだ。
テレビはなんだかよくわからなくて、すごくたくさんの人が笑ってるのに私には何が面白いのかわからなくて寂しかった。窓はすごく結露していて、暗い中に遠くのホテルの明かりやオレンジの街灯がにじんでちいさく光っていた。窓に手を近づけるとひやっとした冷気が出てきていて、しみがついた重いカーテンをしずかに閉じた。

*

次の朝のんびり起きて朝ごはんを食べにレストランに行くと、私たち以外全員中国人の方々だった。とても賑やかで、ここはどこなんだろうな、と不思議な気持ちになった。
広東語か北京語か違うのか、とにかく抑揚の美しい中国の言葉を聞きながら、納豆や味付けのりを食べた。

空港でMちゃんと合流し、飛行機に乗った。6時間弱で着いたフィリピンは暑くて少し臭くて、ほこりっぽかった。

つづく。

 

4歳と山で暮らした話15 お客さまと百日紅とピザ



会いに行ったり会いにきてくれたり。

夏はお客様がたくさんだった。

感想「山だね?!」「うん、思った以上に山なんだけど」「あれあっちゃんち?」「ヤマネでるかなあ」
山の家での生活はインスタで更新していて、友達ともいつもそれで交流していた。
ラインもあるし、meetで会議もよくしていたからあまり友達付き合いは変わっていないような気でいたけれど
だから寂しくなんてないような気がしていたけれど
そんなことはないみたいだった。

*

実家は毎週日曜日に大叔父がケーキや和菓子を持ってやって来て、それを食べてしばらくしてから夕飯の準備に取り掛かる。笑点の頃には祖父も父も風呂から出てビールを飲んで枝豆を食べていた。それは私の原風景でもある。みんなでわいわいご飯を作ったり、食器の準備をしたり。めいめい大人たちが色々話をしているところ、誰かが旅行帰りならその旅行の話などを父の膝で聞いた。

よくお客様が来る家だった。祖父の仕事仲間、父母の友人、母の保育士仲間、、、そして私の友達。合宿所みたいに古い家によく泊まりにきていたことがあったかい思い出としてずっと心にある。

*

久しぶりに家に二人より多く(ヤマネはいたけど)ひとがいて楽しかった。

「お友達が来るの?そしたらあんたうちの布団持っていきなさい」

と言ってくれたので、前の日にあっちゃんの家の二階に布団を干させてもらった。それであっちゃんの家にみんなで布団を借りに行ったりするのが田舎のおばあちゃんちに遊びに来たみたいですごくよかった。私は祖父母も一緒に住んでいたし、親戚は全部東京にいて、いわゆる田舎がない。だからうれしかった。良いなあとアニメやドラマを見るたび、友達の話を聞くたび思ってたそういうのが、その夏には全部つまってた。

友達が来ると、一人じゃ行かないところにも行くことが出来る。山の中でやっている展示を見に行ったり、少し離れた場所にある洒落たパンと雑貨の店に行ってみたり。友達の知り合いがやってる店やゲストハウスに遊びに行って色々話を聞いたりもした。
友達っていつも私の世界を広げてくれる。

私は好きなひとたちにすてきな物や場所を見てほしい、喜んでもらいたい、といつも思っているらしい来てくれた友達を好きな場所に連れて行けることがうれしかった。

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喜んで貰いたい以外にも、自分の見てる世界を共有してほしいと思ってるのかもしれない。

みんな「インスタで見たのここか〜!」と言っていた。

そして母も来た。
「涼しいわあ!寒いぐらいね」

東京にいる時は私の状態が最悪だったので、特に離婚を決めるまでの間は全く会わなかった。「史上最低な年明け」と母が言うように正月にも顔を出さなかった。特に母との関係はどうしようもなくて、反抗期も特になかった私と母の関係は人生で最悪のものだった。実家の横を通るだけで具合が悪くなっていたものな。

そんな母を乗せて車で1時間ぐらいドライブしながらレストランに行った。そこは家族でよく行ってた家の近所のレストランで働いていたシェフの人が、地元でその味を広めたいとひらいたお店で、たまたま山の家から割と近にあったので2人で行くことにしたのだった。

車から降りると肌寒かった。

「こんなに涼しいんじゃ百日紅咲かないね」
「そうねえ、街の方でも見ないからなあ。北限は宮城だからこの辺でも育つとは思うけどね」
「そうなんだ」

「ねえ私の百日紅、いつまで咲いてたっけ?」
「うーん、あんたの百日紅…どうだったかな」

私が生まれた時に記念樹として祖父が裏の公園に百日紅を植えてくれた。当時、自治体で記念日に植樹をする事業をしていたのだ。それが嬉しくて行く度に見ていたけど、いつしか枯れてしまって抜根までされてしまっていた。

「だんだん…夏になっても花がつかなくなって、あぁ〜元気なくなってきちゃったなぁと思って…そのうち葉も減ってきてさ」

グラスを持ちながら思い出すように目をぱちぱちして母が言った。

「元気ないよなあ、もうダメなのかなあと思ってさ。通るたびに見たり撫でたりしてさ」


「…ずっと気にしててくれたの?」

つい泣いてしまった。
好きな木の元気がなくなっていくのを見るのはとてもかなしいことを、私は知っている。

「当たり前じゃない。まぁ近かったのもあるけどさ」

そういうとティッシュ差し出した。

「私のはさ、乙女椿なんだ。ちょっと遠い公園なんだけど、あるんだよ」
「そうなの?」
「むかしあんたと一緒に見に行ったよ。もう生垣みたいにうわっとなってた」
「わあ覚えてないな」
「そうだよねぇ。それももう30年ぐらい前だもん」
「みんなの分があるの?」
「そうだよ。じじとばばのはどこだったかな。ひいじいとひいばあは〇〇公園にハナミズキがある。」
「知らなかったなあ、もうその記念樹の事業はやってないの?」
「やってたら孫ちゃんの時にやらないわけがないじゃない」
「そうだよねえ」

住んでいた町が一定期間行っていた記念樹事業があった。その事業で申し込んで植えた私たち家族の記念樹は、その町のいろんな公園に植えられているのだった。

自分の家族の木が公園に植わってると公園にも街にも親近感が湧くよね、なんて話をしながらピザを食べた。母と食べるピザはとってもおいしかった。

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4歳と山で暮らした話14.桃屋とお姫様


少し前、7月の土曜日に友人から「隣県の温泉地にいるからご飯でも食べない?」と14時ごろ言われ「よしきた」と子を乗せて車で山を降りて隣県まで行った。

帰りが遅くなりそうなので思い切って安いホテルをとった思いつきの小旅行。こんなこともしちゃうんだから、と誰に言うでもなくひとりごちる。

到着したのが18:30すぎで、待ち合わせした駅前は真っ暗だし何もない。でも地方って割とそうだよね。往々にして店があるのは国道沿いだけ。

そんな中とりあえず開いていた駅前の居酒屋でお刺身やつまみを食べ、ぐでぐで座敷に寝転がる娘をつまみながらお酒を飲んだ。大人がひとりじゃないことの安心感てあるよなあ。

次の朝あんまり美味しくないけど品数はべらぼうにある朝食バイキングを食べて、朝から暇だな、何も考えてなかったね、とりあえず友人は帰る時間がお昼前か、はてそれまでどうしようね…と考えてるときに、ふと「あ、桃屋ちゃんが近いのかも」と思って、記憶を頼りに調べてみたらやっぱり近かった。

祖父母が毎年夏に桃を買いに寄った「桃屋ちゃん」。四年前に祖父母が亡くなってから、いや亡くなる前体調を崩してから、随分ご無沙汰している桃屋ちゃん。

なんとなくずっと頭の中にはその存在がありながらしっかり調べなかったのは、怖かったからである。

まだやってるのか?そしておじさんおばさんは元気なのだろうか。忘れられているだろうな。そんなことをはっきり言葉にしなかったけどなんとなくず〜〜〜っとモヤモヤ思っていた。山の家に来る前からずっと。

おそらく調べてしまったら明らかになってしまって、悲しい気持ちで思い出が更新されるのが怖くて嫌だったんだろう。

けれど祖父母が亡くなったことを伝えたい気持ちも確かにあって、いいタイミングが来たらいいなと思っていた。

こういう気持ち、決着をつけるにはエイヤと勢いつけて決めてしまうのがいちばんいい気がする。

も、桃屋に行かないか?と友人を口説いたら「いいよ〜」と言うので一緒に行ってもらった。

私が今の子ぐらいの頃、つまり約30年前。夏になると祖父母と私で山の家に来ていた時代があった。共働きでお盆休みもなかった両親の代わりに祖父母が私をいろんなところに連れて行ってくれた。

そして毎年必ず、山の家に行く前に桃屋ちゃんに寄って、桃を買った。お中元がわりだったのか、伝票を書く祖母のことをなんとなく覚えている。私は小上がりの和室で祖父母とおじさんおばさんが話す横でひとり絵を描いていた。ひとりっ子はとにかく一人でずっと絵を描いていられる。

家から一段下がったところに畑があった。目線の下に広がる桃畑。何となくずっと甘い桃の香りがするその場所で、切ってもらった桃をうんと食べた。

ある年、お姫様の絵を描いたら随分おじさんが喜んで、和室の壁にいろんな伝票やメモがごちゃごちゃ貼ってある中、場所をあけて貼ってくれた。
それから翌年以降行くたびに「ほら!これ姫(と呼ばれていた🙈)が描いたお姫様の!まだ貼ってあるだよ」とおじさんが言うのをくすぐったい気持ちで祖父母の間で聞いていた。しっかり覚えている。

桃屋が連なる街道沿いを走り、桃屋の前に車を停めた。おお、変わってない、全く変わってなさすぎてクラクラした。
「いらっしゃい!」
おばちゃんは元気に迎えてくれた。「ご無沙汰しています、東京のKです」と言うと「Kさん?!あっ、チョロちゃん!?」とすぐ気がついてくれた。30年弱経ってるというのに。私はこんなに、大人になっちゃったと言うのに。

行くまでとてもとても緊張した。もしおばさんやおじさんに何かあったら、祖父母のことを伝えられなかったら、もう遅かったら、それをずっと考えていた。

「まあまあ…!チョロちゃんがこんなにすっかり大きくなってねえ!いま桃むくから座って麦茶飲んでまってて!」

そう言うと、ばたばたと小上がりに行き「Kさん!東京の!」と嬉しそうに言った。
そして私が絵を描かせてもらっていた小上がりの流しでおばさんが桃をむいてくれた。2つに分かれてるフォークで刺して食べた。

娘と桃を3つも食べ、おばさんたちとたくさん話をした。祖父母のこと、山の家に引越したこと。おじさんの姿が見えなかったのでドキドキしながら「あの、おじさんは…?」と聞いたら入院しているものの、とっても元気とのこと。

「ついこの間までチョロちゃんが描いた絵がここに貼ってあっただよ」と教えてくれた。あのお姫様の絵のことだ。「つい、本当についこの間剥がしたとこなんだ」「本当に!惜しかった」まて、30年貼ってあったのか?嬉しくてありがたくて切なくて笑った。

「毎年同じように生育ステージに合わせて家族で農作業をしてるから何も変わらないような気がしてしまう。だけれど、こうしてあんなに小さかったチョロちゃんがお母さんになって、あの時のチョロちゃんぐらいの子供を連れて来てくれるなんて、時間は経ってるんだなあ」

30年前にはお兄さんだった人はもういいおじさんになっていて、そう話してくれた。

「ああ、Kさんのお母さんの元気な声が聞こえてくるようだよ」そう言っておばさんは最後の最後で泣いてしまった。生きてるうちに行き会いたかった、と言っていた。泣いてしまったおばさんの背中をさすりながら私もまた泣いた。
もう82歳だそうだ。

その日、東京はお盆の送り火だった。
今年は一緒に焚けなかったけれど、じじばば、わたし桃屋ちゃんに行って来たよ。
実家に桃を送ったのでお仏壇にお供えしてもらおうね。

つづく

4歳と山で暮らした話13.人生の地図、土と泥と生活音、バスとうどん

8月、友達の展示を見に山から京都までの旅。

はじめての一人暮らしは京都だった。自転車を買って、家財道具を買って、社会人3年目の23歳になる歳からの2年間。

偶然にも短大でいちばん仲が良かった親友が仕事で自転車で行ける距離に住んでいて、彼女の家に自転車でよく行った。

仕事終わりメールか電話で(思えばLINEがまだなかったんですよね)終わった、今から行くねと行ってご飯を作ってもらったり、一緒に魔女の宅急便を彼女の小さなテレビで見た。

その時VHSだったと思う。彼女が大事にずっと持っていたVHS。手書きのラベルの文字。DVDももうたくさん出ていた時代だったけれど。「キキも頑張ってるもんね」と言って2人してえんえん泣いた。今振り返ったらめちゃくちゃかわいい2人だな。

彼女は私に阿部海太郎とコテパスティドと五辻の昆布とプチメックのバゲットとたらこをトースターで焼く時の焼き加減を教えてくれた。

私は何かあげられたかな?

ただ一緒にいるしかできなかった気がする。一緒にタバコを吸って、一緒に阿部海太郎を聞いて、日差しの中、夕焼けの中自転車を漕いで。

彼女の部屋でご飯を食べた後、あまり飲まない彼女とワインを飲みながら床でゴロゴロして、ふと「神戸花鳥園」に行きたいね、という話をしてたとき、「…花鳥園…かちょう…課長園…?」と言い出して30分ぐらい笑い転げていたことを思い出す。
ワンピースで床に転がっててゲラゲラ笑って、だんだん笑うこと自体がおかしくなってきたあのとき。

はーあ、あれからもう10年!

*
彼女のインスタレーションは没入感がすごかった。土や泥などを使って描かれたポストカード大の絵をいくつもつなげたものの前で、彼女が録音した生活音をヘッドホンで聴きながら体感する。

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最近海外で過ごすことが増えた彼女の時間をその手で再構築しているみたいだった。

相変わらず子どもに魔法が使える彼女、子もまたすぐ魅了されていた。

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コーヒーを飲んで手を振って別れた。

*

京都で働いていた2年間は、間違いなく人生の宝物がたくさん増えた時間。

今思えばいつの時代も宝物は増えていて、その時は気が付かないだけなんだけど。

京都時代ははじめての一人暮らし、近所に住んでいる親友。仕事に没頭できて、同世代の信頼できる仕事仲間ができて、好きな店もできて。自分だけの人生の地図がどんどん広がっていくような、健全な勢いがある時代だったと思う。

*

翌日、一緒に働いてたスタッフの子たちそれぞれの子どもを一緒に遊ばせながら、昼間の先斗町を歩いたり、鴨川デルタで松ぼっくり拾ったりしながらいろんな話をした。

 

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「耳がちくわ」「目がかたい」
これ、子供についての話で新しく知ったことば。

「耳がちくわ」は馬耳東風みたいなことらしい。「目がかたい」は宵っ張りっていうことかな。

2年住んでても知らない言葉はあるもんだ。
子どもを持つなんて遠い先の話だったあのとき。

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夜は当時一緒に働いていた友人家族の家に泊めてもらった。仕事終わりによく一緒に行った2階にバーがあるイタリアン、そこで美味しいワインを飲みながらご飯を食べた。
お腹がいっぱいになったみんなで夜の街を歩いて友人家族の家まで帰る時、私の子が「私も肩車して欲しい、ずるい」と言ってぐずった。
彼女の子がパパに肩車してもらっていたのを見てそう言ったのだった。
「ずるいとは違うよ、ママがしよう、おいで」
と言って肩車はできなかったのでおんぶにした。
「ここにパパがいればいいのに!」
「そうだよねえ、うん」

夜、子が寝てから2人でひそひそ彼女の家のリビングでワインを飲みながら話し始めた。

「やっぱり寂しいんだなぁって、わかってたけど再認識したよ」

「せやなあ。おーちゃん(彼女の夫)に対して独り占めしたい、みたいな感じしたもんな」

「そうなんだよね。ここにパパがいて欲しかった、って言って。…おーちゃんと娘ちゃんを見てて羨ましかったんだね」

「まあ、そりゃそうやろなあ。離婚したことに関してはなんて説明したん?」

「パパとママは喧嘩をしてしまって、それは仲直りが難しい喧嘩になってしまった。だから離婚というのをして、離れて暮らすことにしたんだけど、私と一緒に山の家に住んでくれる?って言った」

「そしたらなんて?」

「うんわかった、って。パパとは離れて暮らすし、離婚をするけどパパがあなたのパパなことには変わりがなくて、パパとママは本当にあなたを愛してる、というのも伝えた」

「ちゃんと説明したんやな」

「うん」

「えらいな。でもまあそれで納得するのも難しいよな」

「本当にそう思うよ」

彼女はいつもフラットに話を聞いてくれるから、本音をすらすら言える。不安に思ってた事も全部話した。

気がついたら朝の4時だった。

「えっ?4時なんだけど?」

「うそやんさっき1時ちゃうかった?」

時間って本当に伸びたり縮んだりする。

京都府立植物園に寄って高速バスに乗って帰った。

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高速バスの停留所で降りて、そこから車を停めておいた駐車場に行き、あっちゃんに電話をした。

「今帰ってきたよ、明日朝お土産持って行くね」

「お疲れ様、疲れたやろ?お風呂沸かしといたげるから入りにいらっしゃい。ご飯は?」

「え〜…!!!あっちゃんんんんん」

「なんやの!うどんしかないけど!早く帰ってらっしゃい!」

笑って電話を切った。

つづく。

4歳と山で暮らした話12,5.ヤマネの新居と花火

2、3日東京に帰ってたら靴箱にしまって置いたスニーカーが彼らの家になっていた。

靴箱の上に置いておいた、森で採取した素敵な地衣類をいそいそと運び込んで、ふかふかのベッドにしたみたいだ。

仕方なくそのスニーカーは提供して、他の靴で過ごしている。それから靴箱はあまりタッチしないようにして…。

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さようなら私のニューバランス

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それから早一か月、最近出入りしてる様子がないなと思ってたけど、どうやら他の拠点を作っている…?

調べたところ、ヤマネは危険を感じたらいつでも巣を変えて逃げられるように、習性としていくつか拠点を作っておくんだそう。確かにその方が生き延びる確率が上がるね。かしこいな。

夜、ダイニングテーブルで絵描いてたらめちゃくちゃ堂々とブレーカーのスイッチのスキマから出てくるところに遭遇した。
山の家のブレーカーはとても古いので、メインスイッチの所、脇に1センチぐらいの隙間がある。

そこからしゅっと出てきたヤマネは全く逃げる様子もなく(いつものこと)、そのまま廊下の天井下を伝って奥の部屋に。
なにか口に咥えていたけれど、あれは壁の間の断熱材…?巣作りに使うんだろうか?

そしてヤマネは子とわたしが抱き合い硬直して見守る中、無事に押入れに入って行きました…ど、どうしよう😂

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止めなかったのは、万が一すでに中に子供が居たら…と思ってしまったから…

しばらくの間、そっとしておくことにした。

*
近くの湖で花火大会があるから行こう、とあっちゃんが誘ってくれた。

「いつもな、おかずたくさん作って持ち寄りでさ、シートひいてね。みんなで見るのよ」

「行きたーい!」

「うんうん、みんなで見ましょうね☺️」

あんたは作らんでいいしな、おかず。と言われたので「そういう訳にも…」と思ったけど、場所取りとかシートひくとかそんなんで良いのよ、と優しい言葉にちゃっかりした。

「若い人はいいわ、動いてくれて助かるわ」とにこにこあっちゃんとそのお友達のみなさんが仰るのでにこにこと張り切ってシートを引いたり椅子を用意したり、できることをした。

だんだん日が暮れてくる水辺は適度な賑わいで、来ている人々は皆のんびりしてる。同時にワクワクもしていて、その感じが伝わってくる。

「水面にさぁ、映るのよ、花火が。それがええのよ」

私たちにそれを見せられるのが嬉しそうなあっちゃんの言葉を聞くことが、私も嬉しかった。どんなふうに見えるんだろうなと思いながら暗くなるのを待つ。

暗いのが怖い、と子がいうので隣に引き寄せてギュッとすると、つぎは寒い〜という。

すると途端にあっちゃんが
「寒い?!それはアカン、こっちおいで!」
と自分の横に子を引き寄せてストールでぐるぐる巻きにして、ぎゅっとしてくれた。

それを見てて、ああ幸せだなぁとちょっと泣きそうになっちゃった。

自分の愛してるひとが大切にされてるのってとてもうれしいものだな。

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水面にうつる花火は空に咲く花火とはまた違う花の様で、それはそれは美しかった。

暗さにも慣れてきた子はにこにこと見てる。

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4歳と山で暮らした話11.作ったりあげたりひれ伏したり干したり

6月の中旬、豆板醤を作りに街まで。お味噌作りと同じ料理人のりえさんに教えてもらった。

そら豆から豆板醤が作れるなんて知らなかった!終わった後もお茶してお話させてもらって嬉しかった。


帰り道、以前から気になっていてインスタをフォローしていた街のかわいらしいお花やさんに寄って、あっちゃんにお花を買った。

クレマチスを入れてさりげない感じの花束にしてください」
というざっくりしたオーダーでかわいく仕上げていただいた。

あっちゃんの家に寄ってどうぞ、きれいだったから、としたら

「いや!あんた!そんなんせんでよ〜!……うわあ嬉しいなあ、かわいいなあ!!!…で、あんた晩御飯どうすんの」

「お蕎麦でも茹でようかなって」

「そんならかき揚げでもしよか、上がりなさい」

お礼のつもりが…!と言うも、みんなで食べる方が美味しいやないの、というあっちゃんの言葉に「それはそう。。。」となる。

うちから蕎麦を持ってきて一緒に食べた。

あっちゃんはかき揚げをあげる間も、食器を取りに行くときにも、わざわざお花をいけた花瓶の前を通っては

「いやあ、ほんま、かわいいなあ」

とニコニコしながらみていた。
一緒にご飯の支度をしながら途中で野菜の冷凍の仕方、保存の仕方を教えてもらう。お茄子の炊いたのが美味しくて、

「おいっし〜!」

と言ったら

「あんたいっつもおいしいしか言わんと、あっちゃんのためにならへんやないか」

と怒られる。

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今日もまた、お腹がぱんぱんになって帰路につく。


*

次の日、あっちゃんから7:10ぐらいに電話が鳴る。
祖父母&曽祖母と暮らして来たからか、いつもと違う時間帯に電話が鳴ると何かあったのかと思ってしまう。

少し構えて電話に出たら

「今日いい天気ですねえ、お洗濯干しに来ませんか」

とあっちゃんが言った。

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「いやあ、かわいいなあ、ちっさくて」

娘の洗濯物を見ながらあっちゃんが言う。

「あんたんとこ乾けへんでしょう、木が大きいからさ」

「うん。うれしい、外で干せるの」

夕方、洗濯物を取り込みに行き、あっちゃんも一緒に洗濯物を取り込んで、なんともない話をする。

「明日は麻雀するんよ、最高齢93歳の参加する麻雀やで、たまに打ちながら寝てはるけどなあ」

「でもな息子さんの方はやっぱり上手いねんな、なかなか勝てへん」

洗濯物はからりと乾いていて気持ちがいい。

*

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ある日の夕焼けが圧倒的で、打ちのめされて景色の前にひれ伏す!ひれ伏す!という感じで。

これがまた夜が更けてそして明け、全く違ううつくしさを放つのかと思ったら…あまりのことに泣いてしまった。
🌕

私の尊敬する彼女はとってもすてきなカラードレスを作るひと。

いつだか彼女に

「東京はたくさん色があるね」

と言ったら

「なにを言ってるのそっちの方があるでしょう」

と言われて、その時はうーんそうかな?と思ったんだけれど…
圧倒的な夕焼けを見ながら彼女の言葉を思い出していた。

あの山の上あたりの空の色はなんていう色?

あの雲の合間の色はなんて色?

淡い色、名前のある色と色の間の色がそこここにあって…

ねえほんとに言う通りだったよ、すごいねえ。

つづく

4歳と山で暮らした話12.はじめてのお泊まり、地形、特技

山の日記
20180802

子、なんとはじめてキッズキャンプにひとりで参加した。親元を離れてお泊りするなんてお友達のお家も祖父母のお家も経験が無くて。いきなり二泊三日の旅!
ぐじゃぐじゃに泣きながら出発した土曜日の朝から、いつ電話がかかってくるか私の方がハラハラしていた三日間。

バスから降りて私の顔見たらあの子泣いちゃうかな…と想像して涙ぐみつつバスの到着を待っていたけど、あの子全く泣かず、にこにこぴかぴかな笑顔で走ってきた。

いちばん年下だったから、ちゃっかり先生に甘えていて、みんなが歩いてるのに抱っこしてもらっていた。

はじめてお金を持たせて買ってきたお土産は自分のと私のとあっちゃんに天然石のお守り。

「おかね、ふえたよ!」

と嬉しそうに教えてくれたけど、それはお釣りのことかな…😂


山の日記
20180803


どうやら私は地形を感じることが好きみたいだ。
山の隆起や空との距離、そういうことを感じるのが好きで、清々しい気持ちになる。

【自分が何が好きなのかをこの時期にたくさん知って、「好き」をストックした気がする。それは3年経った今でも私の血となり肉となり、じわじわ心の栄養になっている。】

今朝行ったのは初めての場所だったけれど、山の家はあの辺かな、ということがわかるところ。普段は家の中にこもってるので、こんな場所に住んでるんだなと俯瞰できる場所って大切だなとなんとなく思う。

足元では地際に張った蜘蛛の巣に朝露がついていたりして
遠く、近くにとフォーカスをあわせるのに忙しい。

東京にいた時、産後走るようになってから走ると地形がよくわかることに気づいた。

歩いてる時よりスピードが速いからか地形が掴みやすい。

駒沢通りを恵比寿の方向へ走ると中目黒で一度下がる。それは川があるから。目黒川を越えると槍が先の交差点に向けて上がって行く。代官山の並木橋まで行けばまた下がり渋谷は文字通り谷。すり鉢みたいに谷状の街。

昔から高いところに登って見渡すのが好きで、あの辺に家があってあっちが学校で、友達の家はあの辺か…みたいなことを考えるのが好きだった。幼馴染が住んでた大きなマンションとか、東京タワーとか都庁とか。よく登った。

運転してて楽しいのも、地形をダイレクトに感じることができるからだと思う。

運転免許取って今日で一年経った。
🔰これも今日外せるんだけど、幼馴染の助言に従ってしばらくつけておこ…(着けてても問題ないそう)。

好きな場所を見つけること

履歴書に書く「特技」欄、なにを書きますか? 
わたしいつも、この欄に書けることってなんもないよなあと思っていて。

グーグル先生に聞くと「特技とは: (その人が自信をもつ)特別の技能。」ということなので、わたしが自信を持てる技能とはなんぞや、と考えて出た特技。

それは「いい場所を見つけること」です。

これは完全に、自分にとってのいい場所。誰かにとってはどうってことないかもしれない。
それでも、自分が好きな人たちにお披露目したらほぼ確実に喜んでもらえる!
という確信がある。
なので特技って言ってもいいんじゃないかな、と思ったのでした。

この眺めが好き!この道は春はミモザ、夏は沙羅が…ここから見る冬の山ってすごくいいんだ。とかそういうの。

つまり自分だけのひそかな楽しみの、なにか。自分の気持ちが弱ってる時に立て直せるポイントでもあるのかもなと思う。

たぶんわたしは快感に敏感だ。自分が快と思うことを追求することに(無自覚な場合もあるけれど)貪欲なので、洗濯機の中で脱水を終えて干されるのを待っている洗濯物よりも自分が気持ちよくなれる朝の山をとったりする。(それはただの面倒くさがりなのでは?という言葉はどうぞ飲み込んでください)

ちなみに私の母はきっと、洗い終わった洗濯物が洗濯機の中にあることが耐えきれないので、まず干すしか考えられないだろうなと思う。それが快なんだろうね(ほとんどみんなそう?おお…へへへ…)